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令和6年度 座談会
家族のケアをして感じたこと、考えたこと、悩んだこと。
ケアやお世話をされている中で感じたことや、考えたことなどについてもお話いただきます。
僕は、一緒にサッカーをしたり、僕の仕事を祖母と一緒に見に来てくれたり、そんな父親の元気な姿は永遠に不滅だと思っていたのですが、そうではありませんでした。祖母が脳梗塞になり、立て続けに父親の認知症とパーキンソン病と向き合うことになり、自分の人生がどこに向かっているのか全く分からなくなりました。
仕事に集中したかったので、僕は祖母と父のケアをする余裕がありませんでした。まだ20代だったのでプライベートで友達と一緒に遊びに行きたいけれど、父親の病気が原因で行けないのは、今日参加している方ならよく分かる悩みだと思います。
そして、それを相談する人がいないことが一番の問題だったと思います。同世代の友人と親の健康状態や介護の話をしたくても、彼らはそういうことを話したくないので、僕は孤立していました。また、いざケアが始まったら、働いているのは自分だけ。ですから、父が病気になったとたんに僕は自分の家賃だけでなく実家の家賃まで心配することになりました。
当時の僕は介護の知識が無く、教えてくれる人もいませんでした。僕は、健康だった頃の父のイメージを崩したくなかったので病気のことをずっと隠していました。「お父さん大丈夫?」とか「なんか調子悪そうじゃない?」と聞かれても、「大丈夫。すこし風邪を引いただけ」とごまかしていました。その間、父親の状態も悪化する一方でした。
そんな父親の状態を見て心配したケアマネジャー[1]の方や介護福祉施設の方が、公的介護サービス[2]の利用を薦めてくれましたが、私達は「父の介護は自分達家族だけで全部やる」と決めていました。父親の弱い所を他人に見せたくなかったんです。後々気づきますが「家族のことは家族で」という考え方が自分達の首を締めていました。他人にSOSを出すのは全然恥ずかしいことじゃないし、「助けて」って言えば言うほど、自分の家族の「弱さを認める」ほど、父の病が進行しても、もともと家族の中に流れていた温かい空気は戻ってきました。

もう限界だと思ったとき、ケアマネジャーの方や区の担当者、介護施設の方と話ができてようやく光が見えましたが、それまで、相談できる人がいないことが精神的に大きな負担でした。そして、困っていることを相談しても、具体的な答えが返ってこないことにもモヤモヤしました。
ですから、「こんなことで困っているときは、こういう道がありますよ」という形でアドバイスがあれば助かると思います。僕がそういう知識を持っていないせいかもしれませんが、情報にアクセスする方法が不明確で、毎日社会と隔絶された離島で暮らしているような感覚でした。
[1]要介護・要支援認定を受けた方がサービス(訪問介護、デイサービスなど)を受けられるようケアプランの作成や、区市町村・サービス事業者等との連絡調整を行う者[2]国や自治体が提供する介護の支援サービス
これまで、多くの方から、「元気だった家族が変わっていくのを受け入れられない」そして「病気の治療や支援に関する情報にアクセスすることが困難」ということを伺っています。みなさんにもこのことについて伺いたいと思います。
久しぶりに実家に行ったとき、母が「夜寝られない」と言い出しました。「おかしい」と思ったのですが、それがきっかけで母は発病し、どんどん攻撃的になっていきました。
当時私は東京で暮らしていて、母の職場から「母が病院に運ばれた」と連絡があり、私は急遽実家に戻り、母の入院先を探しました。
以前の母はとても健康的で強い人で、私は母が泣いている姿を見たことがありませんでした。だから、弱ってしまった現実に直面し、受け入れるまでに時間がかかりました。
自分自身、いつまでもかっこいい母でいてほしい願望もあり、母のことを誰にも話せませんでした。特に母の元気な姿を知る友人には母が病気だと言えませんでした。兄弟もいなかったので、相談できる人はいませんでした。
母のケアを始めた頃は、「ヤングケアラー」という言葉が使われ始めたばかりの頃で、自分がヤングケアラーなのかどうかわからないという状態でした。「自分は違う」と認めたくない気持ちもありましたし、「あの家のお母さん、介護が必要らしいよ」という噂もすぐに広まってしまう、隣人の方との距離がとても近い土地なので、母を介護しているのを知られたくないし、みなさんに元気だった頃の母のイメージでいてもらいたい気持ちもありました。
その後、相談をしたり、このことについて話せる人はできましたか?
大学の先生から「ヤングケアラーの研究をやらないか」と言っていただき、そこで母のことを話したことがありました。同級生や友達には絶対言えませんでしたし、今も言えていないです。
今は大学院でヤングケアラーの研究をしているのですよね?
はい。そうです。ヤングケアラーになった子供たちが、どういう形で親の介護を受け入れていくか「受容のプロセス」を研究しています。
自分が頑張って面倒を見なければならないのはわかっていますが、将来のことを考えると不安になります。私も20代なので好きな人もいますが、その人には話しづらいし…。そういうモヤモヤする感情に名前が欲しくて、研究しようと考えています。
親のケアと自分のやりたいこと、例えば恋愛などを同時に進めるのは難しいですよね。恋愛がおかしくなってくると、それを父親のせいにして、僕はめちゃくちゃ父親に当たりました。
「あおい」さんはいかがですか?
母が病気になった小学生の頃から高校生になるまで、ずっと理想の母親像があって、理想を求めて追いかける自分がいました。母親から愛されることを勝手に妄想して、他人と比べてしまうという経験は何回もあります。

あおいさんが小学生のときにお母さんがパーキンソン病になったのですか?
正確にパーキンソン病と診断されたのは小学校6年生の頃ですね。私が小学校3年生の頃から、母は人と関わることが苦手になり、ひきこもりがちになりました。
それは自分の体をコントロールすることができなくなって、自分への自信がどんどん減っていって、外に行きたくなくなるような感じでしたか?
はい。加えて私が中学受験のため、小学校3年生の頃から学習塾に通い始めました。父と母と私では受験に対する考え方も全く違っており、子育てに関する不安を母は1人で背負いきれず、それが母の精神に影響していたと思います。
私が高校3年生になり、本当に誰が見ても「ダメだよね」という状態になるまで、母は病気を隠していて、頑張って「元気な母親」を演じていたんです。
母が元気な自分を演じられなくなったときに認知能力に問題があるとわかりました。そこで初めて父も気づいたみたいです。
父が母の病気に気づいたとき、 私達はどんな支援や行政サービスがあるのか分からず、本当に困惑しました。一番困ったのは、母本人が介護サービスを利用するのを嫌がったことでした。母は、私がやっているのは介護ではなく、寄添っているだけだと思いたがっていました。
介護を嫌がるのはよく聞く話です。自分の状況を認めたくないんですよね。
母は立って歩くことができず、四つん這いになって移動するので、私が帰宅すると床に倒れていることもありました。栄養失調で倒れていたこともあります。食事の作り置きしておいても母は食卓まで移動することができないので。
家族から逃れたかった気持ちもあり、同時に親に依存している、甘えている自分がいることも認識していたので、中学校も高校も私は学校の寮に入っていました。
母の体調が悪くなり毎週土日には実家に帰っていましたが、帰るたびに母が壊れていくのを見ていると家に帰るのが辛かったです。
すごくわかります。ドアを開けた瞬間に家の中でどんなドラマが展開されているのかわからない。家のどこで倒れているのか、いったいどんな場面に出会うのかわからない状態で、もういい加減にしてくれって思っていました。僕の父もパーキンソン病だったので、共感するポイントが沢山あります。
次は「一輝」さんにお話を伺いたいと思います。
今から8年ほど前に姉が摂食障害になり入退院を繰り返すようになりました。その後回復しましたが、一時期、身長145センチで体重25キロ、骨と皮だけのような状態の時期があって、家族みんなでサポートしていました。しかし両親とも仕事があり、姉のことで両親がけんかをしたり、姉がパジャマのまま家を出ようとするのを必死に止めていたのを見ると、僕がサポートをするしかない状況でした。
中学生時代に家でそういうことがあり、学校では自分の感情を押し殺すようになりました。中学校、高校とサッカー部で、高校3年生のときにプロのフットサルチームのユースにチャレンジするチャンスがありましたが、結局、コミュニケーションの部分でうまくいかず、サッカーを続けるのは限界だと感じました。また、自分の感情を押し殺す経験がトラウマになり、感情を言葉にすることに抵抗を持つようになってしまいました。
一輝くんは、お姉さんの摂食障害と向き合うようになってから、話すことができた人はいましたか?いたとしたら、そのときにどのようなアドバイスをもらいましたか?
僕の場合、サッカー部の活動を続けていて、だんだん感情の出し方が下手になり、コミュニケーションがうまく取れなくなりました。それもあって通信制の高校を選びましたが、進路選択についても、だんだんステージが下がっていく感じでした。
専門学校の先生に話したこともありましたが、先生からは期待した答えが返ってきませんでした。
続いて「ののか」さんに伺います。
今は主に夕飯やお昼ご飯を作っています。母が精神病を患っていて、自分でご飯を作ったり片付けをすることができません。現在病院に通っていますが完治はしていません。
母には対人恐怖症があり、病院に行って医師と話していると疲れてしまい、次の日寝込んでしまうことが多いです。そんな日には私はご飯を作りますが、私も疲れているとインスタントものだけで済ませることもあります。精神疾患の人に「片付けをして」と言ってはいけないと聞いたことがあるんですが、疲れているとどうしても言ってしまうことがあり、それが最近の悩みです。
また、今、生活保護を受けていますが、私が大学生になったタイミングで世帯分離[3]することになって、私は自分で稼いだお金で暮しているので大分生活が厳しいです。
[3] 親と同居を続けながら、住民票上で世帯を分けること
次は「しゅんた」さん、お願いします。「しゅんた」さんは、そもそも自分がケアをしているんだという認識をお持ちでしたか?
全くなかったですね。今日参加されているみなさんの中で唯一、生まれつき障害がある家族を持つ立場だと思いますが、どこまでが手伝いで、どこからが介護やケアになるのかなど、あまり考えていませんでした。物心ついた頃から、母親から「あれやって、これやって」と言われていました。母親の体の具合が悪化するにつれて両親の関係が悪くなり、父がそのストレスを僕に向けてくることもありました。ただ、それ以外の両親の姿を知らなかったですし、それが日常だったので、一般的な家庭とのギャップを感じたのはずっと後のことでしたし、支援を受けることへの抵抗もありませんでした。それが普通だと感じていました。

心の持ち方は誰も教えてくれないし、少なくとも僕に「しんどいって言っていいんだ」「助けてと言っていいんだよ」って、誰からも言われなかったと思います。
