田中
それでは座談会を始めます。まず参加者のみなさんに、どのようなケアを経験してきたかをお話しいただきます。
高岡
私は難病を抱えた母のケアをしてきました。母が病気を発症したのは、私が9歳の頃です。高熱や強い倦怠感、全身の痛みで動けない日が続き、大きな病院で検査を受けた結果、難病であることが分かりました。なかなか症状が安定せず、2〜3ヶ月単位で入院を繰り返す生活でした。小学校から大学までの間、家事や病院の付き添い、入院中のお見舞いなどを日常的に担っていました。母を看取るまで、ケアは24年間に及びました。
私が大学生の頃に母は「間質性肺炎[4]」を併発し、酸素を吸入しながらの生活を送るようになりました。外出する時も酸素ボンベを持ち運ばなければならず、「酸素が止まれば命に関わる」という緊張感の中でのケアでした。この頃からヘルパーさんの支援も入り、私は家事や病院の付き添いなどを続けていました。
就職2年目の22歳で母の病状がさらに悪化。全身性のがん(悪性リンパ腫[5])を患い、間質性肺炎も重なって余命宣告を受けました。
残された時間をどのように過ごせばいいのか悩んだ末、私は介護離職[6]を選び、母の食事の用意や身の回りのサポートに専念しました。幸い母は生命力が強く、頑張ってくれたため、がん自体は寛解[7]しましたが、抗がん剤治療によって臓器に大きなダメージが残りました。
その後長期入院が難しくなると、自宅での療養生活が始まりました。歩行も困難になり身体障害者1級となった母を支えるため、ヘルパーや看護師、訪問診療の医師やリハビリの先生など、多くの支援者が家庭に関わる体制の中で、私たち家族は在宅ケアを続けました。
[4]肺の「間質」という組織に炎症が起こり肺が硬くなるため、呼吸がしづらくなる病気[5]血液がんの1つで、白血球のうちリンパ球ががん化する病気[6]介護を理由として勤めている仕事をやめること[7]病気が完全に治ったという状態ではないが、病気による症状や検査異常が消失した状態
ぽむぽむ
私の母は韓国人です。父は日本生まれの在日で、韓国にルーツがあります。小さい頃から、我が家は周囲の家庭とは少し文化が違うと感じていました。母は躁うつ[8]を抱えていて、ケアをしてきました。うつの時は働けず家事もできず、2〜3ヶ月部屋に閉じこもることもありました。逆に躁の時は過活動になり、「世界一周旅行に行く」と言って数ヶ月家を空けたこともあります。そうした母のことを人には言えず、理解されないだろうとあきらめていた部分もありました。
母にとっては精神の病気や外国籍ゆえのストレスを抱えたときに支えてくれる人が周囲に少なく、その影響で強く当たられることもありました。比較的落ち着いている時を見計らって相談するなど、母の状態に合わせて家族全員で支え合っていました。
ケアとしては、父は家計を支えるため仕事を頑張っていて、家事は行っていなかったので、私が中学生から大学生の頃は、母に代わって食事作り、洗濯、掃除の家事全般と、8歳年が離れた弟の宿題や学校の提出物を気に掛けることが生活の一部になっていました。母がうつでない時期は、母の言葉を受け止めたり、励ましたり、反発したり距離を保ちながら見守っていました。
今は一緒には暮らしていませんが、家族にとって母は常に一番気にかけていないといけない存在です。
[8]ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返す病気
むっち
ぽむぽむとは姉弟です。母のことは、姉弟で協力しながらケアをしてきました。症状には波があり、常に支えていたわけではありませんが、体調が悪い時には助け合って見ていました。
おかりな
本格的に母のケアが始まったのは、高校3年生の春でした。母がよく寝込んだり、「ご飯を作れない」と言う日が増え、一人で泣いていることも多くなりました。当時、私は進学校に通っていて受験勉強や塾で家にいないことが多かったのですが、父は単身赴任中で祖母も高齢のため頼れず、母の異変に最初に向き合ったのは私でした。母に精神的な病気の可能性を伝えても「病院には行かない」と拒否され、私は誰にも相談できずに一人で家事や弟の世話を担うようになりました。
母は長い間病院を拒みましたが、診断の結果、うつ病[9]ということが分かりました。その後、父は単身赴任から戻りましたが、私が大学に通いながら家事を続けるという生活でした。特に実習が忙しい時期には夕食を作れず、帰宅すると父に責められることもありました。家族は機能不全に陥り、弟の一人は家を出て、もう一人の弟も難病を発症してしまい、家庭は本当にボロボロでした。
現在、母の状態は以前より落ち着き、再診の結果「双極性障害[10]」と診断されました。今は躁の時期に入り、ややハイテンションな状態が続いています。私は引き続き、その波を見守りながら母をケアしています。
[9]気分の落ち込みといった精神症状とともに、眠れない、食欲がない、疲れやすいなどの身体症状が現れ、日常生活に大きな支障が生じる病気[10]「躁うつ病」とも言う。ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返す病気
ナミレオ
僕が生まれる前から母は統合失調症[11]を患っており、物心ついた時には入院や家庭内での混乱が日常になっていました。母は自身を傷つけることがあり、家では刃物を隠して生活していました。
中学生の頃には、母が家を飛び出すことも増え、家族の誰かが夜中も起きて見守らなくてはなりませんでした。
母が救急車やパトカーを呼んでしまうことも多く、そのたびに「間違いでした」と家族が説明する必要があり、サイレンの音を聞くのが怖くなりました。訪問看護師が来ている時は母も落ち着いていますが、帰った後は豹変し、怒ったりわめいたりすることがあり、父もその度にいら立っていました。そんな家庭で育ち、「どうして自分の家はこうなんだろう」と思う日々でした。
今も大変なことは続いていますが、うまく距離を取れるようになり「気をつけてね」と笑って済ませられる余裕も生まれました。
[11]こころや考えがまとまりづらくなる病気。主な症状として、幻覚や妄想、意欲の低下、感情表現が少なくなるなどがある
ゆい
私の母は交通事故の後遺症により右半身に麻痺があります。左手では食事や着替えはできますが、立ったり座ったり、家の中や外を移動することは難しいです。私がこどもの頃は杖やシルバーカーを使い、今は車椅子で外出しています。ただ、とても転びやすく、家の中でもしょっちゅう倒れてしまうため、常に見守りが欠かせません。
また、高次脳機能障害[12]もあり、自分が転びやすいことに気付けず、「気を付けよう」と意識することが難しい状態です。母は、私が中学生の頃まではアルコール依存症もあり、飲酒でさらに転ぶリスクが高まり、救急車を呼ばれたこともありました。私自身、「母が酔っていただけだ」と周囲に話しにくかったことも覚えています。
母には家事をしようという気持ちはあるのですが、料理では生のままや腐った食材に気付かず、掃除をしてもかえって散らかしてしまうなど、結果的にやり直しが必要になることが多く、私は小学生の頃から家事を引き継いできました。
最近は若年性認知症[13]の診断も受け、体力の衰えもあって、家事を任せるのは難しい状況です。今はデイサービス[14]を利用しつつ、家では私が見守り、必要に応じて手を貸しながら、お風呂などのケアも続けています。
[12]交通事故や頭部のけが、脳卒中などで脳が部分的に損傷を受けたため、言語や記憶などの機能に障害が起きた状態[13]65歳未満で発症した認知症を言う。認知症とはいろいろな原因で脳の細胞が損傷を受けたり、働きが悪くなることで、認知機能(物事を記憶する、言葉を使う、計算する、問題を解決するために深く考えるなどの頭の働き)が低下し、さまざまな生活のしづらさが現れる状態[14]日中に、食事や入浴などの日常生活上の支援や生活機能向上のための機能訓練、口腔機能向上サービスなどを提供する施設