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令和(れいわ)7年度(ねんど) 座談会(ざだんかい)

目次(もくじ)





家族(かぞく)のケアを「(にな)う」ということ~(ほか)家族(かぞく)(わたし)


田中(たなか)

みなさん、(ほか)参加者(さんかしゃ)のお(はなし)興味深(きょうみぶか)()いていらっしゃいましたが、(なに)()になったことなどありますか?



ぽむぽむ

自分(じぶん)以外(いがい)家族(かぞく)(なか)一緒(いっしょ)にケアに協力(きょうりょく)してくれる(かた)はいらっしゃいましたか?



高岡(たかおか)

(はは)病気(びょうき)になる(まえ)から(むすめ)(わたし)がお手伝(てつだ)いをすることが(おお)く、(あに)大学(だいがく)卒業(そつぎょう)した(あと)独立(どくりつ)し、(ちち)(わたし)たち家族(かぞく)(やしな)い、(はは)治療費(ちりょうひ)(かせ)ぐためにずっと(はたら)()めで、家庭(かてい)のことにあまり積極的(せっきょくてき)(かか)わることはありませんでした。そのため、いつの()にか(はは)のケアはほとんど(わたし)(にな)ことになっていました。


ただ、(はは)がこの()旅立(たびだ)つまでの最後(さいご)の5年間(ねんかん)ほどは、私自身(わたしじしん)もケアの負担(ふたん)(からだ)(こわ)すことがあり、何度(なんど)(ちち)(はな)()いました。その結果(けっか)半分(はんぶん)とまではいかなくても、3(わり)くらいは(ちち)(にな)ってくれるようになりました。



ナミレオ

(ぼく)は4人姉弟(にんきょうだい)一番下(いちばんした)なんですが、(はは)のケアをしていたのは一番上(いちばんうえ)(あね)(ぼく)でした。いつのまにか自分(じぶん)がという(かん)じです。()(なか)の2(にん)比較的(ひかくてき)自由(じゆう)()ごしていて、あまりケアに(かか)わることはなかったです。
「なんで一番下(いちばんした)自分(じぶん)がやっているんだろう」という(おも)もありましたし、「()(なか)二人(ふたり)、もう(すこ)手伝(てつだ)ってくれてもいいのに」という不満(ふまん)(かん)じることも正直(しょうじき)ありました。



おかりな

(ちち)単身赴任(たんしんふにん)をしていて、たまに(かえ)ってきましたが、(はは)(こころ)病気(びょうき)(たい)してはなかなか理解(りかい)してもらえず、(ちち)(はは)関係性(かんけいせい)(わる)くなっていきました。その姿(すがた)()(おとうと)(きず)ついているのが(つら)く、私自身(わたしじしん)自分(じぶん)存在(そんざい)(はは)(くる)しめているのではないかと罪悪感(ざいあくかん)(いだ)くようになりました。


さらに(いえ)のお(かね)管理(かんり)まで(わたし)背負(せお)うことに。高校生(こうこうせい)にとって「お手伝(てつだ)い」の範囲(はんい)をはるかに()える責任(せきにん)でした。()()ちをかけるように祖母(そぼ)(ころ)んでケガをし、ケアはもちろん、生活全般(せいかつぜんぱん)(おお)くが(わたし)にのしかかってきました。



ぽむぽむ

(わたし)は3人姉弟(にんきょうだい)ですが、一番上(いちばんうえ)(あね)留学(りゅうがく)していたため(いえ)にはおらず、(ちち)()(ちち)ではあるものの、(いえ)にいることもあればいないこともありました。そのため、(はは)(わたし)(おとうと)だけで生活(せいかつ)する時期(じき)もありました。(はは)(はたら)けない状態(じょうたい)のときは、(はは)()わりとして家事(かじ)(にな)わなければならないと(かん)じていました。



高岡(たかおか)

大人(おとな)のケアは「役割分担(やくわりぶんたん)」が前提(ぜんてい)で、自分(じぶん)にはできないことを(だれ)かに(まか)せ、その()わりに自分(じぶん)にできることを(にな)う、という(かたち)になると(おも)います。しかしこどもの立場(たちば)だと、役割分担(やくわりぶんたん)()っても対等(たいとう)(かん)じはあまりありません。(おや)に「これをやって」と()われたら、それに(したが)わざるを()ない場面(ばめん)(おお)いですし、自分(じぶん)で「やりたくない」と主張(しゅちょう)することも(むずか)しいんですよね。だから、一度(いちど)(まか)された役割(やくわり)がそのまま自然(しぜん)固定化(こていか)されてしまうことも(おお)いです。









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