田中
ケアをしていく中で、感じていたこと、思っていたことなどがあれば教えていただけますか?
高岡
学生時代、私が強く感じていたのは、他の家庭と自分の家庭との違いでした。周りの子たちは、翌日の学校の準備を親に手伝ってもらったり、帰宅が遅くなると親に迎えに来てもらったりしていて、まるで家政婦さんがいるかのように思えました。
一方、私は授業の準備や試験勉強はもちろん身の回りのことも自分でこなし、さらにご飯の用意や家事も、家族と協力してこなさなければなりませんでした。その上で母の身の回りの世話や病院への付き添いもしていたため、同年代の子たちと比べて、こどもとして受けるサポートの差を強く感じていました。
親の作ったお弁当を持ってくる友達を見ると、愛情を受けているんだなと感じ、仕方のないことと頭では理解しながらも寂しさや疎外感を抱くこともありました。もちろん、自分が愛されていないわけではないのですが、その言いようのない複雑な思いを表に出すことはできませんでした。誰かになぐさめてもらいたいわけでも、かわいそうと思われたいわけでもなく、ただ行き場のない感情をこどもの頃から抱えながら生きてきたのだと思います。
ぽむぽむ
弟には寂しい思いをさせたくない、また、曲がった方向に育ってほしくないという思いから、「宿題やったの?」や「学校の手紙出したの?」と口うるさく言っていました。
田中
ぽむぽむさんが中学生ぐらいの時はまだむっちさんは5歳くらい、高校生の時には小学校の高学年ですよね。
ぽむぽむ
母の代わりに授業参観や運動会に行くこともありました。そのとき「良いお姉ちゃんね」と言われると、嬉しい気持ちと同時に、ちょっと悔しい気持ちもあって、複雑でした。嬉しい気持ち、悲しい気持ち、そして「なんでかな」と思う気持ちをどう整理しながら生活していくか、大人になるにつれて、その感情の扱い方が少しずつ楽になったように思います。
むっち
本当に今は姉に感謝していますし、大好きです。でも、昔はそう思えなかった時期もありました。中学生の頃は反抗期で、「うるさいなぁ」と感じることも多かったです。
当時、母が自身を傷つける危険がある時期があり、家族が交代で見守らなければいけませんでした。僕は家にいる時間が長かったので見守る時間も多かったのですが、友達と遊びたくて、鍵を閉めて出かけてしまったことがありました。その間に母が危険な状態になり、「なんで見ていなかったんだ」と叱られました。小学生の頃からずっと母を見てきた僕にとって、その怒りは納得しがたい部分もありました。でも今振り返ると、遊びたい気持ちはあっても、当時は確かに見守る必要があったと実感します。
他にも、周りの子たちは勉強に集中できる環境にいるのに、うちでは母が隣の部屋で泣いていて、家で勉強できませんでした。それでも学校の先生からは「なんで勉強しないんだ」「宿題やってこないんだ」と言われ、事情を説明することもできず、少し反発してしまったこともありました。
本当は「勉強できないのには理由があったんだ」と言いたかったのですが、言えませんでしたし、図書館に行って勉強するという選択もできませんでした。常に気が気でない状況で、母が泣いている隣で勉強しようとしても集中できず、「こんな状況でもやれ」と自分を責める気持ちと、「いや、無理だよ」という思いが交錯していました。
ナミレオ
高岡さんが言っていた、「愛情のこもったお弁当」ってすごく分かります。みんな彩りのあるお弁当なんですよね。僕は友達には自分の家のことを隠していました。絶対にばれてはいけないと思っていました。
中学生の頃の話ですが、部活をやっていたので、お弁当を持っていく時には、姉の作る卵焼きなどを真似して自分で作っていました。でもそれを友達には、「母が作った」って言っていました。
今考えるとすごくむなしいことをやっているなと思うし、たぶん周りも気付いていたと思うんですけど、「今日お母さんこれだけだ」と声に出して言うなど、あえて聞こえるようにしていたこともありました。
20歳を過ぎた頃、母と姉、訪問看護師と出かける予定の日、母がまた怒っているのを見て「自分はこのまま母にしばられて年を取っていくのか」と改めて思うことがあり、初めて人前で泣いてしまいました。その姿を見た訪問看護師が心配して、家族が休める時間も必要ということで、母が短期で施設に入所できるようにつないでくれました。そこでヤングケアラー支援を行っているNPO法人にもつながることができました。あの時、助けてもらえたことが大きな転機になったと思います。